「宮崎駿=海原雄山」説

コクリコ坂から』を観てきた。

逆説的だが「ジブリっぽくなくて」良かった。

ジブリといえば躍動感溢れるアクションだったり、情感豊なキャラクター群だったり、イマジネーションの発露たるファンタジー世界がその魅力なんだろうが、今回はその一切を排除していると言ってもいいくらいに静かで上品な作りになっていた。
一部にそういったシーンもあったが、恐らくはサービス的に盛り込んでおいたくらいで、全体的にはトーン抑えめの脱ジブリ的な作品だ。

宮崎駿はアニメーター出身だけあって、徹底的なまでに“動”の人だ。
崖の上のポニョ』ではストーリーを無視してそのこだわりが変態の極みにまで達してしまったから、それに対抗しようなんていうのは土台無理な話で、『コクリコ坂から』の“静”の演出は正しい選択だったと思う。
そして傑作といかないまでも佳作に仕上がっており、個人的には好感の持てる作品だった。
しかし、皮肉なのがその“静”の演出と好相性の脚本を書いたのが父・駿ということだ。
吾朗自身が脚本まで手がけた第一作『ゲド戦記』を散々こき下ろした父が第二作目の脚本を書いてあげるなんて、何というツンデレ
ここに私は“至高のツンデレ”こと海原雄山の姿を見た。
「ぬはははは、吾朗。貴様に至高の映画とは何かを教えてやる。この脚本で映画をつくってみよ」ということだ、つまり。
対する吾朗は「一週間後にスタジオジブリに来てください。本当の『コクリコ坂』を見せてあげましょう」と応じる。
その二人を引き合わすために実は智将・栗田ゆう子こと鈴木敏夫が裏で暗躍しているとも知らず二人は競い合うのだ。

脚本は言ってしまえば、ノスタルジーかつご都合主義で、守旧的な思想にまみれている。少女漫画のセンチメンタリズムの皮相を借りて作品の体を成しているが、宮崎駿の父権主義的な思想が透けて見えるこの脚本で息子に映画を作らせることに歪んだ愛情を感じる。
息子はその愛情に応えると同時に抗い、ノスタルジーに堕することを避け、淡々と過去にあった一つの恋愛話として描こうとしていたように思う。
ただ脚本からの逸脱、換骨奪胎があるかといえば、行儀良く収まってしまった感があり、まるで究極と至高の対決で海原雄山に勝ちを譲ってもらう山岡士郎のよう。
それでも父とは違う独自色を出そうとした跡は見られ、ジブリの新機軸たりうる可能性を感じた。

宮崎駿は、前作『ゲド戦記』では途中で席を立ったそうだが、今作では最後まで観賞したそうだ。ただ手放しで賞賛はしなかった。
そして試写室からスタジオジブリに帰るとき、きっと黒塗りの車の中で一人ごちたのだろう。
「ふっ、吾朗の奴めが、、、」と。