松本人志そんなこと思ってない説

賞レースの優勝者を各番組がどう扱うか、そして優勝者自身がどう爪痕を残すか、というのは賞レース終了後の副次的な楽しみの1つであるわけで、とりわけ今年の『R-1ぐらんぷり』優勝者・濱田祐太郎は盲目という今までのバラエティの文脈において稀有な存在であるがゆえ、その動向は注目するところであった。
そんな期待と不安の中『水曜日のダウンタウン』で行われたのが「『箱の中身はなんだろな』得意な芸能人No.1濱田祐太郎説」である。
もう説の時点でトップクラスに面白い。濱田の漫談冒頭に放たれる決め台詞「迷ったら笑といてくださいよ」に全力で応えるような濱田を生かしきる企画。
歴代のR-1王者との対決といった構成も、「触ったことのないものは分からない」という検証結果も、説の期待どおり面白かったが、登場した濱田がいきなり「松ちゃん見てる~?」と呼び掛け、それに松本が「松本をお前が見たことないやろ」とつっこむという当意即妙のやりとりが衝撃的に面白かった。面白かったと同時に、障害者に対する笑いのブレイクスルーを見たような気がした。

…とここまで大仰に書くことだろうか?という疑念が頭をもたげる。

人は常に何かを語りたがる。たとえばバラエティ番組を見ながら社会問題を切りたがる。
古くはいじりといじめの関係であったり、最近では芸人の上下関係をパワハラと重ねてみたり、女芸人の苦悩をジェンダー問題と絡めてみたり、バラエティ番組の一場面を切り取り、自分の主張を語るための「駒」にしてしまう、というのは(私も含め)やりがちである。

翻って肝心の面白さの分析はどうだろう。
件のやりとりについて昨日から拡散されている論評がある。
note.mu


要約すると、
松本人志は「どういうお笑い?」なのか
・濱田のボケの核は「松ちゃん」(大先輩を馴れ馴れしく呼ぶ)
・「見てる~?」は定型文で、「元気?」や「久しぶり」で代替可能
・松本は皆が見過ごす「見てる」につっこみを入れ笑いを生んだ
・松本は面白くないものを面白くする
・ありがてえ

と、読み間違えてなければこのとおりだと思うのだが、なるほど、一瞬納得してしまいそうになる。
散文的な文章で読みやすく、結論に至るまでの筋道も分かりやすく、「面白い」だけでは済まさない1つ上の思考を手にしたような気にさせる。

だが、立ち止まってみてほしい。思考を他人に預けず、己の目で対象をじっくりと見つめ、その説が正しいか自分でゆっくり考えてみよう。

果たして濱田のボケの核は「松ちゃん」だったのだろうか。何も考えず、親しげな定型文として「見てる~?」を使ったのか。自身の漫談で「目ぇ見えへんけど二度見しましたからね」「視覚障害者が耳疑うってなかなかないですよ」という盲目ネタを使う彼が。フリートークでも先輩相手に臆せず積極的に仕掛けてくる彼が。

まずもってこの説の出発点が「松本人志の笑いは『どういうお笑い?』か」である。
千鳥ノブのつっこみフレーズ「どういうお笑い?」を起点にして、流れるように松本人志論へと思考を巡らし、先日話題となった濱田とのやりとりを軸にして松本のお笑いを分析し始める。文章の構成としては綺麗だが、松本を語りたいがために濱田を「駒」にしてしまっていないだろうか。本来は「松ちゃん見てる~?」「松ちゃんをお前が見たことないやろ」というミクロなやりとりを見ているはずなのに、筆者の視点はその外、松本は何を笑いにしたのか、そもそも松本のお笑いとは、というマクロな領域に移行してしまっている。
だから、「大胆なパスを出した濱田はすごい」であるし「それに一発でゴールを決めた松本もすごい」であるはずなのに、筆者の「松本めちゃくちゃすごい」という強い思いに濱田が絡めとられ「濱田のボケは凡庸」になってしまう。
さらに筆者は昔の松本は「面白くなかったとされることを面白いことにする芸」つまりシュールなボケだったが、それにより客は成熟してしまったので近年の松本は「面白いところを見つけてつっこみボケに変える」ツッコミに変わったという論を展開する。ここまでくると言葉遊びの域のような気もするが、じゃあ昔からやってた「写真で一言」は?『ガキの使い』のフリートークやコラムで繰り広げてた世間へのツッコミは?もしかしてシュールなボケでなくなったって『ごっつええ感じ』が終わっただけで言ってない?

…とまぁ1つの綻びからこの説の穴を次々と指摘したくなるのだが、私の説もまたあらゆる仮定の上に成り立っていることを忘れてはならない。信じるか信じないかはあなた次第、はまた別の番組。検証結果はあなた次第、という無責任な言葉を放り投げてこの無駄な思考の遊びを繰り返す。一番偉いのは面白いを作ってる人だよ。