音痴かもしれない

娘と風呂に入る。

娘が『おかあさんといっしょ』や『みんなのうた』で覚えた歌を歌いだす。

そして「パパも一緒に歌おう」と言う。

よし、まかせろ。パパも一緒に見ているからな。覚えているぞ。

意気揚々と歌い始めたら突然背後のドアが開いた。

「音程が違います」

妻がそう言い放ち、ドアを閉めて去っていった。

 

音痴かもしれない。

いや、たぶん、おそらく、きっと音痴だ。

なぜなら妻には絶対音感がある。

音楽大学を出ているし、娘が適当に歌ったオリジナルソングを耳コピでピアノ演奏したりする。日向坂46の『ドレミソラシド』を聞くと、歌詞と音階が合っていないからと気分が悪くなる。

たぶん、おそらく、きっと絶対音感がある。

私が鼻歌を歌っている時も「半音上がってます」「なんでそこで調が変わるんですか?」などと指摘してくる。しかし、そんな説明をされたところで、私には理解できない。五線譜と実際の音が頭の中で結びつかない。お手本のメロディを歌ってもらって初めて「そう言われてみると違うかもしれない」と思う程度で、更にはそれを再現することができない。身体の能力として「ド」の音を「ド」の音として認識し「ド」の音を発する機能が備わっていない。

 

そこでふと思ったのが、会話をしていて絶望的なまでに噛み合わない時、このような「能力の壁」が存在しているのではないだろうか。それは知性の問題かもしれないし、あるいは感性の問題かもしれない。同じ言葉を使っていても違う意味で捉えたり、同じ問題を扱っていてもまったく違う面を見ていたり。ネットで日々繰り広げられる不毛な議論も、それぞれが見たい面しか見ず、というよりは理解できる階層でしか物事を捉えられていないから永遠に平行線を辿っているのではないか。

たとえば「価値観のアップデート」なんて流行り言葉になっているけど、それをできていると自負している人は果たして本当に使いこなせているのか。理解した気になって、実は間違った使い方をしているんじゃないか。

「ドレミ」なら正解があるけれど、今「価値観のアップデート」と言っている価値観はどこまで正しいの?「誰も傷つけない笑い」は本当に誰も傷つけないの?今日の正解は明日も正解?

皆、気づいていないだけで音痴かもしれない。

 

 

 


たま 電車かもしれない