曖昧がない世界
曖昧がない。
混じり合う価値観がない。
この世界からグラデーションが消えていく。
白か黒か。正しいか間違ってるか。善か悪か。お前は敵なのか味方なのか。
子供が生まれてからというもの世の中の出来事に対して「子供に何と説明すればよいのか」と考えることが増えた。
「子供に何と説明すればよいのか」といえば尾木ママの常套句であるが、彼は世の中を善と悪に分け、悪と判じたものに対してそれを使う。思考停止の手段として。あるいは一発ギャグとして。
しかし私は本気で考える。子供に何と説明しよう。これは正しいことなのか。それとも間違ってることなのか。子供にどう考えてほしいのか。
例えばりゅうちぇるのタトゥー問題。
近年、特に子育てや夫婦の在り方について新世代の価値観の代弁者として支持を集めるりゅうちぇるが妻と子の名前のタトゥーを入れ、一転バッシングを集めた。
世間曰く「子供がかわいそう」。
りゅうちぇる曰く「偏見に負けない」。
私がタトゥーを入れないのはまったく私の自由であろうし、りゅうちぇるのタトゥーに干渉しないのもまた自由であろう。
しかし我が子がタトゥーを入れたいと言ったときに「やめなさい」と言うことは果たして偏見で差別になるのだろうか。
突き詰めるとそういう話になるのだが、この世の中はまったくもって突き詰めすぎだ。
世界をあちらとこちらに分けたがる。
そういえば少し前に炎上した牛乳石鹸のCMもあちらとこちらで迷う男が主人公だった。
母は専業主婦で父は家のことなど一切しない所謂「旧世代」の家庭で育った男は、夫婦共働きで自らも家事育児を積極的に行う「新世代」の生活を送っている。
その旧世代と新世代の違いにモヤモヤとした疑問を感じ、迷い、揺らいでいる時に、ふと魔が差して子供の誕生日をすっぽかしてしまう。
それで炎上。もはや迷うという感情すら許さぬ正しさの大合唱。
常に正しさの側に回らねば正しさに殺されてしまうから人は皆正しさで武装し正しさの軍に入る。そうして正しさ同士で殺し合う。
「リスクをとらない人の文章はつまらない」と言った作家は自らにリスクが振りかかった時に全力で他人のせいにするし、新人作家の漫画をタイトルだけで自作の盗作と思い込み連載中止に追い込んだ漫画家は自らの盗作がバレた時に沈黙を続け同時に連載も続けたし、企画名に「狂犬」と入っていようが情報番組の司会者はいつだって善良でなければならない。自演ですかね?うるせー!知らねー!
正しさの側から落ちてはいけない。落ちるわけにはいかない。
パワハラ問題で「被害者側だけの意見でなく双方の意見を聞かないとコメントできない」と発言した芸人に「コメンテーターの仕事をしろ」と詰め寄った司会者も、芸能人の飲酒運転ひき逃げを扱おうとも「僕も昔、飲酒運転してパトカーから逃げ回った挙げ句電柱に衝突したけど…」なんて枕詞をつけるわけにはいかないし、新聞に投書した70代男性のために日大を取り上げ続けなければならない。
ありがとう。こうして今日も地球の平和は守られた。
私は家族と幸せに眠りにつく。