今井舞と140文字

今井舞。自称「ポスト・ナンシー関」を標榜するコラムニスト。

「ポスト・ナンシー関」というとどんな名文筆家かと期待するだろうが、「自称」というのがミソで、「自称そっくりさん」で言うところの「自称」、松浦亜弥に対する松浦ほよよくらいに考えてもらえば問題ないかと思う。

そんな本人の10倍希釈どころか原液すら入ってないんじゃないかというコラムを粗製濫造しているにも関わらず、掲載されるのは週刊文春週刊朝日といったメジャー週刊誌で、そこだけはナンシー関の足跡を辿るという謎の存在でもある。

そしてまた新ドラマが始まると毎度週刊文春に「メッタ切り」と題して横断的に酷評を書き連ねるのだが、これが酷い。酷いというか薄い。薄っぺらい。

いつもナナメ読みをしては「あぁ今回も内容がないな」と惰性の確認作業をするにすぎない記事であったのだが、先日このようなツイートを目にした。

早速読み比べてみたら、これが見事。

あまりにダメすぎてそのダメさを指摘する気にもなれなかった今井舞のコラムが、同じ題材を扱った柚木麻子の洞察に富んだコラムによって、光と影のようにダメさ加減が鮮やかに浮かび上がってくる。

優れたコラムとは「造詣」にある。

両者の決定的な違いはこの「造詣の深さ」であり、それは対象物への掘り下げ方に表れている。

柚木麻子のコラムには今期のドラマを「当たり前に繰り返されてきたドラマならではの様式美や、なんとなく守ってきたルールのアップデート」という日本のテレビドラマの歴史的文脈から論じる縦軸があるのに対して、今井舞のそれは「不作すぎる秋ドラマ」とまとめるのみで個々のドラマに対する感想の羅列にすぎない。

更に個々のドラマに対する掘り下げ方も同様で、たとえば『Chef~三ツ星の給食~』で柚木麻子が「おそらくジョン・ファブローが監督・主演を務めた「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」を意識したのだろうが、だったら店を辞める発端(ジョン・ファブロー演じるシェフはTwitter誤爆し、意地悪なフードブロガーとネット民の揶揄の対象となる)をもう少し愉快で、主人公のキャラクターがよくわかる、今風の軽やかなものにして欲しかった。~たぶん、ドラマならではのお約束を律義に守って、掴みで一通り説明してしまおうと奮闘した結果だと思うのだけど、既視感のある約束事はいっそ全部省略してしまっても今の視聴者には、十分に伝わったのではないか。」とその欠点を元ネタに目配せしつつ的確に評しているのに対して今井舞は「エピソードがあまりにもご都合主義で、期待値の爽快感は全く伴わず」と思ったことを思ったまま口にする子供みたいな感想。「初日に子供から「マズイ」と総スカンを食らった理由が全く提示されない」と尤もらしく欠点を論っているが、そのまま彼女の批評へのブーメランになっているのが滑稽。

また両者が揃って褒めている『逃げるは恥だが役に立つ』についても柚木麻子が「家庭内ほのぼのストーリーに見せかけた個人と社会、需要と供給、仕事とお金にまつわる真摯な物語であり、人間関係の距離感の難しさや、やりがい搾取への鋭い眼差しも効いている。なにより、無償で当たり前とされていた行為を有償にした瞬間、世界が反転して見える構図が新鮮だ」と多角的にドラマの優れている点を挙げているのに対して今井舞は「形だけの結婚を通して、今までとは異なる物の見方を学んだり、自分の欠点を知って恥じたり。同居してから始まる恋という、見たことのないアプローチで描かれる、未経験の感情に悶絶する二人の姿は、恋に不器用な人にはたまらない作り」とTVガイドに載っている番組説明のような上っ面をなぞっただけの完全に一周目の感想である。

そう、今井舞の感想はいつも「一周目」なのだ。

長らくテレビを見続けてきた人の含蓄がない。たまたまテレビをつけたらやってたので見てみた、くらいの軽い感想。小手先でちょいとひねった表現(といっても大概滑っているけど)を加えて、人とは違うナナメ視点で切ってやりました、みたいな空気を醸し出しているけど、その中身は手垢がつきまくった感想でしかない。更に「褒める」よりも「切って捨てる」批評ばかりだから、面白いものに対する考察の蓄積=多様性がなく、それゆえに貶す場合も視点がワンパターン化する。

ようやく今井舞のダメさの原因に結論がつき始めた頃にこんなツイートが目に入ってきた。

深爪。ナンシー関好きを公言する自称「プロツイッタラー」。

「プロツイッタラー」については、『テラスハウス』で言うところの「俳優志望」、プロ住人こと菅谷哲也を考えてもらえば問題ないかと思う。

とはいえTwitterでは11万人以上のフォロワーを集め、コラム本まで出版されるほどの人気者なのだが、件のツイートは実際に番組を見た人ならほとんどが首を傾げるだろう。

何故なら(って大仰に言うほどのことでもないんだけど)そういう企画だからね。

かつての人気歌手を集め、今流行りの歌ばかりが歌われるカラオケ店の一室に幽閉し、自分の歌が歌われるまで帰れないという悪意ありありの企画。鶴久にしたってスタジオの解答者から「この人じゃない方がいいんだよな」と野次られる扱いで、先のツイートなんて目に映るものを見たままの感想でしかないのに、「ヤラセ」というワードを加えることでナナメ視点の香りを漂わせている。

これ全くもって今井舞の浅さと同じだ。逆に言うと今井舞の浅さってTwitter的なのかもしれない。

深い考察を一切排して、文句を言いたいだけの読者の共感性のみに特化し、ただ彼らの溜飲を下げるためだけに、140文字で済むような、それ以上考える必要のない表層的な文句を作り続ける。

実際に番組を見た人なら今井舞の的外れな批評には疑問符がつくばかりだが、自分が見もしない番組に文句を言いたいだけの人にとっては都合のいい代弁者なのだろう。

そうした短絡的な不満の発露が行き着く先が、もしかしたらあのたった一文字、張本勲の「喝」なのかもしれない。