ゴリ押しだから嫌いが分からない

「ゴリ押しだから○○が嫌い」


よく聞く文言だ。○○には何が入るだろう。韓流か、AKB48か、今なら剛力彩芽だろうか。
物の本によればゴリ押しとは「強引に自分の意見などを押し通すこと」だそうだ。
今様に解釈するなら「ある特定の人・モノが人気や実力が不十分であるにもかかわらず、何某かの力によって不相応に過度なメディア露出をする」ということになろうか。
そしてこの“ゴリ押し”を親の仇のように嫌う人がとかく多い。特にネット界隈で顕著で、現代社会の掃き溜めことヤフコメでは、例えば剛力彩芽の記事が掲載されるたびに「ゴリ押し」と書き込む人が後を絶たず、もはやそれを生業にしているのではないかというほど。


確かに過度にメディア露出している人はいるとは思うが、それを単に“ゴリ押し”と言ってしまうと見ている側が一方的に不利益を被っているようで違和感を覚える。
何故ならそのゴリ押しをしているのは私企業だ。私企業の本懐は営利である。事務所であればそのタレントが売れることを、テレビ局であれば視聴率を得ることを、スポンサーであれば売上が伸びることをそれぞれ望んでいるはずで、何も嫌がらせを目的に身銭を切ってゴリ押ししている訳ではない。それが嫌われたのだとしたら、不幸にも需要を見誤っただけのことだ。


それよりも更に腑に落ちないのが、そもそも何故にゴリ押ししている主体ではなく、ゴリ押し“されている”客体が嫌われてるのかということだ。「ゴリ押しだから」なんて言えば尤もらしく聞こえるが、よくよく考えれば理由として成り立っていない。この理由に正当性があるとするならば、トゥーシューズに画鋲を仕込む類の妬み嫉みだろう。
しかし「ゴリ押しだ」と言う人間の多くはそのように見受けられない。恐らく根底にあるのはもっと単純な“なんとなくの悪意”だ。「鼻につく」とか「気に食わない」というような、その程度の悪意があり、そこに“ゴリ押し”という分かりやすい大義が与えられ、これを好機にと嬉々として対象を叩いているだけだ。


24時間テレビ』に対する批判もそうだ。
もはや夏の風物詩のように毎年飽くことなく繰り返される『24時間テレビ』叩き。
代表的なものを挙げると、曰く「ギャラが出ているから本当のチャリティーではない」と。
なんだ「本当のチャリティーではない」って。山岡士郎か。一週間後にここに来てください本当のチャリティをご覧に入れてくださるのかよ。
きっとこの言説を言い始めた人はそれなりの思想を持って批判したのだろうと思う。しかしこの意見に乗っかった多くの人は付和雷同的で、批判した“その先”なんて考えていない。叩くことが目的化していて、そこに建設的な思考は何一つない。


常に悪意というものは燻ぶっている。そこに何かを叩くちょっとした理由(らしきもの)を与えてやるだけでいい。
そうすれば誰かが考えてくれた理由があるから即ち思考は停止し、世間の空気はそれを叩く方向に流れる。
その空気に乗っかれば、安全圏から人垣に紛れて石を投げるだけでいい。
安易な娯楽、叩きたい祭りの出来上がりだ。


だから私が言いたいのは、これからみのもんたを叩くであろうあなたは、自分の中にある悪意の正体に気づいていますか、という話なのです。