モテキの果てに何を見たか

今夏最もはまったドラマ、『モテキ』。


私的なことを言わせてもらうが、私はモテない。反吐が出るほどモテない。モテなくて死にそう。
永遠の安全水域。友達以上友達以下ちょうど友達。異性として見られない草食系男子。いや草食系にすら入れない食物連鎖の末端、微生物系男子。ウンコ分解してろ。・・・といったコンプレックス抱えまくりの恋愛弱者の私にとってこのドラマは恋愛の面倒くさい諸々を可視化して言語化して面前に叩きつけ、心に爪を立てまくり、勇気なのか傷なのか分からないが何かを心の中に残していった。


仕事に心血注いで情熱を燃やせるわけでもなく、すべてを忘れて没頭できる趣味があるわけでもない。そんな大多数の人間にとって最も分かりやすい自己実現の方法が“恋愛”なのではないだろうか。いやマズロー自己実現理論でいえば、恋愛はより低次の承認欲求、所属と愛の欲求に分類されるのかもしれないが、恋愛というシステムが社会の一部に組み込まれてしまっている現代では容易に自己実現へスライドされるだろう。
ハリウッド映画において地球の存亡がかかろうと船が沈もうと無上の価値とされるのは真実の愛だし、テレビにおいても『パンチDEデート』から『ねるとん紅鯨団』、『未来日記』、『あいのり』と連綿と色恋沙汰が消費され続けているし、西野カナは会いたくて会いたくて仕方ない。


取捨選択のうえ恋愛を切り捨てた人、恋愛以外で自己実現を果たしている人にとっては『モテキ』に流れる「恋愛不適合者=社会不適合者」的な考えは反感を買うのかもしれないが、これはあくまで恋愛したくても出来ない主人公・藤本の心の奥底であって、恋愛から逃げている人の大いなる悩みだろう。
実際のところ恋愛をしたところで何もかもが満たされるなんてことはないだろうし、手に入らないがゆえの憧憬という面も否定できない。それでも、それでもだ。ヒトがヒトである以上、他者に求められ与え、他者を求め与えられる、相互を承認し帰属する最も簡潔な関係性が恋人なのだから、多くの人がそれを追い求めてしまう。
そして現代は先に述べたように恋愛至上主義が喧伝され、皆がこぞって恋愛競争に勤しんでいる。それが正しいとか正しくないとかそんなのは問題ではない。
その競争に参加しようとしてそこからあぶれた恋愛弱者の克服の物語が『モテキ』だ。


終盤に至るほど図式は極めて分かりやすく、非モテとは対極にある所謂リア充の象徴たる親友・島田、そして非モテにとって到達目標でもあり未知ゆえに恐怖の対象でもある女性という存在の象徴たる小宮山夏樹、この二人を乗り越えていくというテーマに収斂していく。
RPGのクエストをクリアするがごとく目の前のイベントを次々こなし、恋愛の様々な面倒くさいに直面し、それに打ちのめされ、乗り越えて、恋人らしき存在(土井亜紀)をも手に入れた末に藤本が真に乗り越えるべき存在は小宮山夏樹だった。
心から好きで、でも心から理解できない絶対的な他者・小宮山夏樹。心から分かり合うなんて幻想に過ぎない。そんな苦い現実すら飲み込んで藤本はなおも前に進む。しかし、突如として衝撃の結末を迎える。いや『モテキ』という物語は終わるが、藤本自身の人生は続く。この着地の仕方はいびつだが鮮やかだ。物語としてのハッピーエンドを迎えたってその先の藤本のことは分からない。彼女ができることと藤本の成長はイコールではない。あのラストの決意こそが藤本の成長だ。


藤本の目指す恋愛が人生の幸せとは限らない。でもそれを幸せだと思うなら努力するべきだ。「なんでわざわざ面倒くさい思いをしてまで・・・」という人がいるけれど、幸せを得るのって面倒くさいものじゃないの。濡れ手に粟のように幸せを手にしている人もいるかもしれないが、それが自分に出来ないのなら諦めるんじゃなくて努力しないと。欲しいものを酸っぱい葡萄と決めつけず、手に入れてからそれを捨ててもいいんじゃないか。