ブログで垂れ流す

最近、Twitterがしんどいなぁと感じていて、前はきちんと文章を書かなければいけないブログに対して思考を垂れ流すTwitterと思っていたんだけど、どうも思考を無理矢理140文字に収めようとしてるんじゃないかと思い始めて、だから逆に未整理な思考こそブログにつらつら書いてみてはどうだろうと廃屋となってたこのブログを更新している。気分なのでいつまで続くか分からないけど。

Twitterしんどいなぁ」は見てる時も同様で、これはちょっと胃もたれに近いかもしれない。年を取ると脂身の多い肉を食べられなくなるように、前は面白いと思ってたようなツイートをもう食い飽きた。というか皆が同じようなことを言っている。ウケのためにこすり倒された構文、フォーマットに落とし込んで。フォロワーが万を超える所謂アルファはいつまでも過去にウケたことを繰り返す。人間ってもっと多面的で多層的だと思うんだけど、ひたすら同じ面しか見せてこない。

そんなのお前も同じだろと言われたらそうかもしれないし、だからモヤモヤとした思いをこうして書き綴っている。

見る分はコントロールできるので、無理だなと感じたらフォロー外すし、リツイートで回ってきたらブロックなりミュートなりするし、できるだけ快適な環境作りに努めてる。

話は変わるが、そこでちょっと思ったのが、やたらと嫌われてる坂上忍梅沢富美男ね。 これも胃もたれというか供給過多の摂取量オーバーなんだと思う。後者は最近そうでもないが、前者はもう毎日テレビに出ては毎日同じことを言って毎日同じようにキレている。元々は「ブスは嫌い」という毒舌ギャグでプチブレイクした一発屋芸人みたいなものなのに、それが何故だか上手いことスライドして既存の毒舌枠にぴったり収まっただけの話で、そこに前誰がいたのかというとたぶんみのもんたなんだろう。それを必要としてる人たちはいるんだろうが、少なくとも私はお腹いっぱいです。そこにいてもいいがちょっと領土がでかい。お気に入りの場所にまで浸食してこないでくれ。

まぁ私が一部のアルファツイッタラーを嫌いな理由もそんなことだろうと思ったり思わなかったりラジバンダリ。本日はこんなところです。

最後はいつも残酷

「バラエティの最後は寂しく、残酷なもの」とは『笑っていいとも!グランドフィナーレ』で中居正広タモリに贈った言葉であるが、よほど気に入ったのか『めちゃイケ』終了に際しても同様の言葉をメンバーに贈っており、堂々たるその語り口はさながら『A-studio』で一人語りをする鶴瓶のようであった。

「バラエティの最後は残酷」とはつまり「打ち切り」を指しているわけで、予め終わりが決められたドラマやコンサートを引き合いに出し、終わりに向かって頑張るのではなく、終わらないことを目指して頑張るのがバラエティであると。バラエティを主戦場としてきたアイドルだからこそ言える重みのある言葉であるが、終わりはいつだって打ち切りで、むしろ綺麗な形で終わりを迎えられることの方が稀有なのではないだろうか。

彼の所属していたSMAPも終わることを許されず最終的に空中分解し、冠番組の最終回は追悼番組の様相であった。週刊少年ジャンプも「終わらない」ことが至上命題で、人気があれば永遠に続くし、人気がなければすぐに終わる。年表でまとめて終わる漫画もあれば、画風が劇的に変わって終わる漫画もあるし、皆が寝て終わる漫画もある。かと思えば、3年くらい前に完結編に入った気がする某漫画はいまだに続いている。

昔『トップランナー』で岩井俊二が好きな漫画の1位に『ジョジョの奇妙な冒険』を挙げていて、その理由の一つに「ジョジョという名前だけ残して主人公を変えて連載を続けるという画期的な方法を編み出したから」というようなことを言っていた。

この主人公を変えるという方法、AKB48がやろうとしているのはこれなのかな、と先日の『AKB48世界選抜総選挙』を見て思った。この界隈は魔窟なのでしたり顔で語ると石とか発煙筒が飛んできそうだけど、あくまで蚊帳の外の野次馬として見て、毎年何かしら対立の構図が作られて、それを繰り返すことで主人公の入れ替えを図っているのかもしれないなと思う。それが秋元康の書いた台本なのか、メンバーたちの間で自然発生的に生まれたのか分からないが、いずれにせよ今年は1位になった松井珠理奈が(2位の須田亜香里を虫けらのごとく無視して)3位の宮脇咲良とのライバル関係を今後の軸にしようとしてるのだなというのは、事後のインタビューなどから明らかに見てとれる。しかしその喧嘩の吹っ掛け方が非常に雑というか、荒っぽいというか、率直に書くと、あの口調はもう精神を病んだ人ですよ。

アイドルにストーリーを見出だすというのはアイドルの楽しみ方の一つではあるが、秋元康の作り出すそれは下世話で、扇情的で、往々にして残酷だ。いや、ストーリーなどという作り込まれたものではなく、リングだけ雑に作り、そこに少女たちを放り込んであとは「もがき苦しめ」と言っているようなものだ。

松井珠理奈は加入直後から秋元康の寵愛を受け、中学生ながらシングルのセンターを務めるも、総選挙では首位争いから外れ、辛酸を舐め続けてやっと掴み取った1位。しかし振り返って見ると、追い抜きたいと思っていたライバルたちはとうの昔にこの争いから離脱し、育ての親たる秋元康の興味は妹の坂道に移り芸人のグループまで作ろうとしている。

松井珠理奈が精神を病むのも宜なるかな

この安い、あまりにも安いストーリーに決着をつけるとしたら、すべての元凶である秋元康松井珠理奈が刺し違えるしかないのではないか。

結局何が言いたかったのかというと、松井珠理奈の喋り方まるでサイコホラーじゃん。松居一代かよ。ということで、それを引き延ばしたのがこちらの文章になります。こちらからは以上です。

秀ちゃんとは何者だろう

「秀ちゃん」。

秀ちゃんとは何者だろう。

昨日、『水曜日のダウンタウン』を見ながらそんなことを考えた。

大喜利苦手芸人、酔った状態の方が面白い説」で出されたお題「あだ名が『オチなしクソ野郎』、その芸人とは?」に対してT氏が「秀ちゃん」と答えた。

VTRを見ながら「(酔って)面白くなってるね」と頬を緩ませていた松本人志もこの回答には一瞬表情を強張らせ、大喜利の司会を務めていた麒麟・川島も「大丈夫ですか?」と回答者を心配し、不穏な空気が流れたように感じたが、すかさずT氏は「いろんな秀ちゃんがいるからね」とコメントし、「酒を飲むと気が大きくなる」という検証結果でVTRは終了した。

焼きごて記者じゃあるまいし、殊更この件を粒立てる気はないし、そもそも何故に皆が色めき立っているのかが分からない。T氏の言う「秀ちゃん」とは「バーモント秀樹」のことでまず間違いがなく、彼がオチなしクソ野郎であることは事実であるし、酩酊状態でありながら全国ネットでショーパブ時代からの盟友の名前を出すT氏の男気には感動すら覚えた。

とはいえ「いろんな秀ちゃんがいるからね」である。

この件とは全くの無関係であるが、私はふと「いろんな秀ちゃん」のうちの一人、中山秀征のことを考えていた。そう、オチなしクソ野郎の方の秀ちゃんではなく、ババロア頭の方の秀ちゃんだ。

私が物心つく頃にはテレビに出ていた秀ちゃん。『TVおじゃマンボウ』で面白くもないのにはしゃぐ秀ちゃん。『夜もヒッパレ』で上手くもない歌を自信満々に歌う秀ちゃん。『静かなるドン』でイケメンでもないし演技も上手くないのに主演を張る秀ちゃん。おはようからおやすみまで生活を見つめる秀ちゃん。ナンシー関に酷評され続けてもテレビに出る秀ちゃん。需要もないのに供給だけが増えていく秀ちゃん。世界の均衡を崩す秀ちゃん。

そもそもなぜこの男が「秀ちゃん」と呼ばれているかも知らない。

そうだ。私はこの男の出自を知らない。いや、どうやら元お笑い芸人らしいことは耳に挟んだことがあるが、その栄光を聞いたことはない。今や大工のヒロミですらかつてお笑い第三世代を代表する一人であったことや、今や「ファン0人説」とまで言われる勝俣ひろかず、もとい勝俣州和ですらアイドルとして人気を博していたことを知っているのに、中山秀征に関しては情報がほぼゼロである。無から生まれた虚人。もしやメディアが作り出した架空の存在なのではないかとすら思っていた。

そこにいる必然性がないのにいつまでたっても消えない彼をテレビにおける飛蚊症のように感じながら数年過ごし、大学進学と同時に上京した時に彼が関東ローカル番組『ラジかる』でやりたい放題していることを知る。無駄に積み重ねた芸歴だけを盾に、後輩芸人を無下に扱い、自らは愚にもつかないボケを繰り返す。あの頃彼は幾度となく渡哲也のモノマネ(とも呼べない代物)で「マグロ」と何の脈絡もなく恐らく一番つまらないタイミングで発していた。思い出すだけでも背筋が凍る。

虚の出自の上に虚のキャリアを積み重ね、とうとう虚山の大将となった秀ちゃん。

私はいまだにその正体を掴めずにいる。かと言って掴みたいとも思わない。もしかしたら私が虚だと思っていただけで、本当は彼にとてつもない魅力があり、どこかに彼を追い求め恋い焦がれる一大勢力があるのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。あの大喜利と同じようにこの文章にオチはない。とりとめのない思考の残滓だ。今日もまたぼんやりと頭の片隅で思う。

秀ちゃんとは何者だろう。

松本人志そんなこと思ってない説

賞レースの優勝者を各番組がどう扱うか、そして優勝者自身がどう爪痕を残すか、というのは賞レース終了後の副次的な楽しみの1つであるわけで、とりわけ今年の『R-1ぐらんぷり』優勝者・濱田祐太郎は盲目という今までのバラエティの文脈において稀有な存在であるがゆえ、その動向は注目するところであった。
そんな期待と不安の中『水曜日のダウンタウン』で行われたのが「『箱の中身はなんだろな』得意な芸能人No.1濱田祐太郎説」である。
もう説の時点でトップクラスに面白い。濱田の漫談冒頭に放たれる決め台詞「迷ったら笑といてくださいよ」に全力で応えるような濱田を生かしきる企画。
歴代のR-1王者との対決といった構成も、「触ったことのないものは分からない」という検証結果も、説の期待どおり面白かったが、登場した濱田がいきなり「松ちゃん見てる~?」と呼び掛け、それに松本が「松本をお前が見たことないやろ」とつっこむという当意即妙のやりとりが衝撃的に面白かった。面白かったと同時に、障害者に対する笑いのブレイクスルーを見たような気がした。

…とここまで大仰に書くことだろうか?という疑念が頭をもたげる。

人は常に何かを語りたがる。たとえばバラエティ番組を見ながら社会問題を切りたがる。
古くはいじりといじめの関係であったり、最近では芸人の上下関係をパワハラと重ねてみたり、女芸人の苦悩をジェンダー問題と絡めてみたり、バラエティ番組の一場面を切り取り、自分の主張を語るための「駒」にしてしまう、というのは(私も含め)やりがちである。

翻って肝心の面白さの分析はどうだろう。
件のやりとりについて昨日から拡散されている論評がある。
note.mu


要約すると、
松本人志は「どういうお笑い?」なのか
・濱田のボケの核は「松ちゃん」(大先輩を馴れ馴れしく呼ぶ)
・「見てる~?」は定型文で、「元気?」や「久しぶり」で代替可能
・松本は皆が見過ごす「見てる」につっこみを入れ笑いを生んだ
・松本は面白くないものを面白くする
・ありがてえ

と、読み間違えてなければこのとおりだと思うのだが、なるほど、一瞬納得してしまいそうになる。
散文的な文章で読みやすく、結論に至るまでの筋道も分かりやすく、「面白い」だけでは済まさない1つ上の思考を手にしたような気にさせる。

だが、立ち止まってみてほしい。思考を他人に預けず、己の目で対象をじっくりと見つめ、その説が正しいか自分でゆっくり考えてみよう。

果たして濱田のボケの核は「松ちゃん」だったのだろうか。何も考えず、親しげな定型文として「見てる~?」を使ったのか。自身の漫談で「目ぇ見えへんけど二度見しましたからね」「視覚障害者が耳疑うってなかなかないですよ」という盲目ネタを使う彼が。フリートークでも先輩相手に臆せず積極的に仕掛けてくる彼が。

まずもってこの説の出発点が「松本人志の笑いは『どういうお笑い?』か」である。
千鳥ノブのつっこみフレーズ「どういうお笑い?」を起点にして、流れるように松本人志論へと思考を巡らし、先日話題となった濱田とのやりとりを軸にして松本のお笑いを分析し始める。文章の構成としては綺麗だが、松本を語りたいがために濱田を「駒」にしてしまっていないだろうか。本来は「松ちゃん見てる~?」「松ちゃんをお前が見たことないやろ」というミクロなやりとりを見ているはずなのに、筆者の視点はその外、松本は何を笑いにしたのか、そもそも松本のお笑いとは、というマクロな領域に移行してしまっている。
だから、「大胆なパスを出した濱田はすごい」であるし「それに一発でゴールを決めた松本もすごい」であるはずなのに、筆者の「松本めちゃくちゃすごい」という強い思いに濱田が絡めとられ「濱田のボケは凡庸」になってしまう。
さらに筆者は昔の松本は「面白くなかったとされることを面白いことにする芸」つまりシュールなボケだったが、それにより客は成熟してしまったので近年の松本は「面白いところを見つけてつっこみボケに変える」ツッコミに変わったという論を展開する。ここまでくると言葉遊びの域のような気もするが、じゃあ昔からやってた「写真で一言」は?『ガキの使い』のフリートークやコラムで繰り広げてた世間へのツッコミは?もしかしてシュールなボケでなくなったって『ごっつええ感じ』が終わっただけで言ってない?

…とまぁ1つの綻びからこの説の穴を次々と指摘したくなるのだが、私の説もまたあらゆる仮定の上に成り立っていることを忘れてはならない。信じるか信じないかはあなた次第、はまた別の番組。検証結果はあなた次第、という無責任な言葉を放り投げてこの無駄な思考の遊びを繰り返す。一番偉いのは面白いを作ってる人だよ。

今井舞と140文字

今井舞。自称「ポスト・ナンシー関」を標榜するコラムニスト。

「ポスト・ナンシー関」というとどんな名文筆家かと期待するだろうが、「自称」というのがミソで、「自称そっくりさん」で言うところの「自称」、松浦亜弥に対する松浦ほよよくらいに考えてもらえば問題ないかと思う。

そんな本人の10倍希釈どころか原液すら入ってないんじゃないかというコラムを粗製濫造しているにも関わらず、掲載されるのは週刊文春週刊朝日といったメジャー週刊誌で、そこだけはナンシー関の足跡を辿るという謎の存在でもある。

そしてまた新ドラマが始まると毎度週刊文春に「メッタ切り」と題して横断的に酷評を書き連ねるのだが、これが酷い。酷いというか薄い。薄っぺらい。

いつもナナメ読みをしては「あぁ今回も内容がないな」と惰性の確認作業をするにすぎない記事であったのだが、先日このようなツイートを目にした。

早速読み比べてみたら、これが見事。

あまりにダメすぎてそのダメさを指摘する気にもなれなかった今井舞のコラムが、同じ題材を扱った柚木麻子の洞察に富んだコラムによって、光と影のようにダメさ加減が鮮やかに浮かび上がってくる。

優れたコラムとは「造詣」にある。

両者の決定的な違いはこの「造詣の深さ」であり、それは対象物への掘り下げ方に表れている。

柚木麻子のコラムには今期のドラマを「当たり前に繰り返されてきたドラマならではの様式美や、なんとなく守ってきたルールのアップデート」という日本のテレビドラマの歴史的文脈から論じる縦軸があるのに対して、今井舞のそれは「不作すぎる秋ドラマ」とまとめるのみで個々のドラマに対する感想の羅列にすぎない。

更に個々のドラマに対する掘り下げ方も同様で、たとえば『Chef~三ツ星の給食~』で柚木麻子が「おそらくジョン・ファブローが監督・主演を務めた「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」を意識したのだろうが、だったら店を辞める発端(ジョン・ファブロー演じるシェフはTwitter誤爆し、意地悪なフードブロガーとネット民の揶揄の対象となる)をもう少し愉快で、主人公のキャラクターがよくわかる、今風の軽やかなものにして欲しかった。~たぶん、ドラマならではのお約束を律義に守って、掴みで一通り説明してしまおうと奮闘した結果だと思うのだけど、既視感のある約束事はいっそ全部省略してしまっても今の視聴者には、十分に伝わったのではないか。」とその欠点を元ネタに目配せしつつ的確に評しているのに対して今井舞は「エピソードがあまりにもご都合主義で、期待値の爽快感は全く伴わず」と思ったことを思ったまま口にする子供みたいな感想。「初日に子供から「マズイ」と総スカンを食らった理由が全く提示されない」と尤もらしく欠点を論っているが、そのまま彼女の批評へのブーメランになっているのが滑稽。

また両者が揃って褒めている『逃げるは恥だが役に立つ』についても柚木麻子が「家庭内ほのぼのストーリーに見せかけた個人と社会、需要と供給、仕事とお金にまつわる真摯な物語であり、人間関係の距離感の難しさや、やりがい搾取への鋭い眼差しも効いている。なにより、無償で当たり前とされていた行為を有償にした瞬間、世界が反転して見える構図が新鮮だ」と多角的にドラマの優れている点を挙げているのに対して今井舞は「形だけの結婚を通して、今までとは異なる物の見方を学んだり、自分の欠点を知って恥じたり。同居してから始まる恋という、見たことのないアプローチで描かれる、未経験の感情に悶絶する二人の姿は、恋に不器用な人にはたまらない作り」とTVガイドに載っている番組説明のような上っ面をなぞっただけの完全に一周目の感想である。

そう、今井舞の感想はいつも「一周目」なのだ。

長らくテレビを見続けてきた人の含蓄がない。たまたまテレビをつけたらやってたので見てみた、くらいの軽い感想。小手先でちょいとひねった表現(といっても大概滑っているけど)を加えて、人とは違うナナメ視点で切ってやりました、みたいな空気を醸し出しているけど、その中身は手垢がつきまくった感想でしかない。更に「褒める」よりも「切って捨てる」批評ばかりだから、面白いものに対する考察の蓄積=多様性がなく、それゆえに貶す場合も視点がワンパターン化する。

ようやく今井舞のダメさの原因に結論がつき始めた頃にこんなツイートが目に入ってきた。

深爪。ナンシー関好きを公言する自称「プロツイッタラー」。

「プロツイッタラー」については、『テラスハウス』で言うところの「俳優志望」、プロ住人こと菅谷哲也を考えてもらえば問題ないかと思う。

とはいえTwitterでは11万人以上のフォロワーを集め、コラム本まで出版されるほどの人気者なのだが、件のツイートは実際に番組を見た人ならほとんどが首を傾げるだろう。

何故なら(って大仰に言うほどのことでもないんだけど)そういう企画だからね。

かつての人気歌手を集め、今流行りの歌ばかりが歌われるカラオケ店の一室に幽閉し、自分の歌が歌われるまで帰れないという悪意ありありの企画。鶴久にしたってスタジオの解答者から「この人じゃない方がいいんだよな」と野次られる扱いで、先のツイートなんて目に映るものを見たままの感想でしかないのに、「ヤラセ」というワードを加えることでナナメ視点の香りを漂わせている。

これ全くもって今井舞の浅さと同じだ。逆に言うと今井舞の浅さってTwitter的なのかもしれない。

深い考察を一切排して、文句を言いたいだけの読者の共感性のみに特化し、ただ彼らの溜飲を下げるためだけに、140文字で済むような、それ以上考える必要のない表層的な文句を作り続ける。

実際に番組を見た人なら今井舞の的外れな批評には疑問符がつくばかりだが、自分が見もしない番組に文句を言いたいだけの人にとっては都合のいい代弁者なのだろう。

そうした短絡的な不満の発露が行き着く先が、もしかしたらあのたった一文字、張本勲の「喝」なのかもしれない。