映えの王

「舌を肥やすな、飯がマズくなる」という言葉を見た。

どうやら2ちゃんねるの元管理人・ひろゆき(の友人)の言葉らしい。それを剽窃したのかたまたま被ったのか、とある料理研究家が同じようなことを言っていた。曰く「これはライフハックなのですが、舌は肥やしすぎない方が幸せになれます。舌を肥やしすぎるということは生きる上でまずく感じる料理が多くなるということ」と。

「舌が肥える」とは物の本によると「色々なものを食べて、味の良し悪しがよくわかるようになる」ことなので、私は味のストライクゾーンが広がり美味しく感じる料理が増えるもので料理研究家はその手助けをしてくれる人だと思っていたが、この人は違うらしい。「肥える」=「肥満」=「悪」といった字面からの連想ゲームか、あるいは海原雄山のような傲慢な美食家のイメージか。

ところで、某番組の一流料理人が有名チェーン店の料理をジャッジという企画を毎回ではないがよく見ている。あれも一見すると舌の肥えた人が安い料理を不当に貶しているように見えるかもしれないが、コメントをよく聞くと「一流の味か否か」をジャッジしているわけではなく、ファミレスなり、コンビニなりの評価軸があることが分かる。「この価格でこの味はすごい」ということが必ず加味されている。だから価格帯がジャッジする人の店とバッティングし出すと評価は急に厳しくなったりする。また宅配ピザを一流ピザ職人がジャッジする際も家族で楽しむことが加味されてたりするし、ジャンクはジャンクできちんと評価する。その一方でマルゲリータと名がつくと「これは本当のマルゲリータではない」となってしまう。

テレビなので表現に多少の誇張はあるかもしれないが、舌が肥えているからといって味のストライクゾーンが狭まっているわけではなく、それぞれの価格帯に応じた素材の良し悪しや調理の組み立てをきちんと評価している、と私は思う。

閑話休題

では「舌を肥やしすぎない方が幸せになれる」とはどういうことなのだろう。

そういえばこの料理研究家のレシピはバズレシピといってめんつゆやバター、にんにくを多用した手軽にやみつきになる味が売りのようだ。そういった安くジャンクな味付けは高級料理と対極にあるから、「舌が肥える=高級料理を食べる」と考えているならまま合点が行く。とはいえ「味の良し悪しがわかる」ことを「マズイものが増える」と曲解しユーザーを唆すのはどうだろう。味の違いが分からない者にとってその言葉は現状を肯定してくれる甘い囁きだろう。しかしそれが善いことであるかは分からない。

思えばSNSには甘い囁きが溢れている。「頑張らなくていいよ」、「逃げたらいいよ」、「やめたらいいよ」。

耳触りのよい言葉はあっという間にバズっていくが、そんな言葉を吐いた者たちは本当にあなたのことを考えているだろうか。

「弱ってる時にアイドルソングを聞くとハマりやすい」という説を聞いたタモリは「弱みにつけ込んでくるんだ」といとも鮮やかに世界を反転させた…とは言い過ぎか。単なるジョークであるし、アイドル好きとしてはそんなことないよと異を唱えたいところだが、弱みにつけ込むアイドルがいないとも限らない。況や有象無象のSNSに於いてをや、である。

いいものがバズるではなく、バズったものがいいものというバズ至上主義がまかり通る現代で、バズに迎合した言説がバズを集め加速度的に肥大化していく。

たとえばバズレシピで過剰な油脂と旨味と塩分を摂取して瞬発的な満足感を得たとして、その後にあなたの体は、味覚はどうなっていくのだろうか。バズだけが膨れ上がり、あなた自身の幸福は縮小再生産にしかならないのではないか。

そのバズは本当にあなたのためを思っているのでしょうか?ひょっとしたら甘えにつけ込んでるだけじゃありませんか?


「バズに頼るな、世界が狭くなる」

 

逃げ恥あるある言うよ

かつて万物のあるあるを統べる者が「逃げ恥あるある、一つだけあります」と言った。

彼は時のアメリカ大統領ドナルド・トランプに扮し、ワム!の『ウキウキ・ウェイクミーアップ』の軽快なメロディに乗せて、たった一つだけという逃げ恥あるあるを高らかに歌い上げた。

 

「逃げ恥、めっちゃおもろい」

 

あれから4年、アメリカ大統領も入れ替わろうかという2021年1月、逃げ恥の新春スペシャルが放送された。

毎週火曜日にテレビの前で夫婦揃って笑って泣いてあーだこーだ言っていたように、今回のスペシャルも夫婦揃って大いに笑って泣いてあーだこーだ言い合った。

テーマが妊娠・出産・育児ということもあり、もうじき4歳になる娘を持つ我々としては共感する場面が多く、特に泣くシーンでもないのにボロボロと泣いたりしていた。

お互いの感想で面白かったのが、妻が「妊娠中の悩みは男性側がメインでしたね。女性側はあっさりしてた」と言ったのに対し、私は「逆じゃない?女性側の方が多かったよ」と言ったことで、妊娠・出産を経験してもなお、冒頭のみくりの独白「私たちは、その道のりは、地球と月ほどに遠い」がこんなにも当てはまるものかと笑ってしまった。

他にも「風見さんだけトレンディドラマなのよ」「つわり思い出して泣いちゃう」「親父が生きてたら平匡のお父さんと同じこと言いそう」「仕事と家事で疲れてるのにみくりが能天気にアイシングクッキーの写真見せてくるの共感して笑った」「でもあの時子供のこと何も調べてなかったでしょ」「コロナ以降がつらすぎた」「娘の写真を見て希望を取り戻すのはいいシーンだったよ」などと感想を言い合って満足していたのだが、Twitterでとんでもない意見を目にした。

 

「みくりと平匡さんのドタバタほっこり子育てコメディを期待してたら、現代社会の問題を全部乗せした啓蒙ビデオみがスゴくて途中でお腹いっぱいになった」

 

ドタバタほっこり子育てコメディ???

この人、4年前の連続ドラマを見ていないのかな?と思ったらきちんと見ている。その上でドラマのテーゼとまるで逆の「ドタバタほっこり子育てコメディ」なんていう偏差値3のワードが出てくるなんて、何も呪いが解かれていないじゃないかと強烈な脱力感に襲われた。

また、「現代社会の問題を全部乗せした啓蒙ビデオ」とあるのも、キャラクターやストーリーを無視して作者の主義・主張を無理矢理ねじ込んでくるような脚本であったのならば頷けるが、選択的夫婦別姓も、女性の産休問題も、男性の育休問題も、計画無痛分娩も、その他のあらゆる問題も、妊娠・出産で当然対面する問題で、さらにみくりと平匡のキャラクターを考えればそれらをまったく無視して話を進める方がよっぽど不自然でご都合主義ではないだろうか?

ドラマやアニメの続編あるいは映画版の利点というのは、キャラクターの説明を省ける、前提条件を共有できている、ということだと思ってるんだけど、みくりと平匡に関する記憶がすっぽり抜け落ちてるんだろうか?まるで女性部下との浮気を夢に見たり、「そこにキャバクラがあるからさ」と言ってキャバクラに行ったり、家族サービスが嫌いでこそこそゴルフに行ったりする側面が忘れ去られて、ネット上で理想の父親として祭り上げられる野原ひろしを見ているようだ。(この野原ひろし問題は映画のジャイアン問題より邪悪だと思っているがまた別の話)

とはいえ冒頭の平匡の「“サポート”します」発言に端を発する些か強引な口論で二人のキャラクターがきちんと念押しされているんだけど足りないか。

あと、LGBT問題だって、おひとりさま問題だって、沼田さんや百合ちゃんがいるから当然出てくるわけで、今回のスペシャルドラマではモブにしたり、いっそ人物ごと消したりすれば扱わないこともできたかもしれないが、それをしないのが、端々まで掬い取るのがこのドラマの魅力だと思うんですがどうなんですかね。

だから「現代社会の問題を全部乗せ」したわけじゃない。あるんだよ。それぞれの登場人物の当事者問題として、その人自身のセリフとして描いていたと思うのだけど、それを「啓蒙ビデオ」と感じてしまうのは、普段の生活において「無いもの」と思っているからなのかもしれない、、、とまで言うと、言い過ぎなのでやめときます。

とにもかくにも、面白い面白くないは個人の感想で、正解も間違いもないけど、「ドタバタほっこり子育てコメディ」だけは無いだろうと。それこそキャラクターやストーリーを無視して、みくりと平匡を単なる「萌えの道具」としてしか見ていないということだと思う。

 

個人的にはとても面白かった今回の逃げ恥スペシャルだけど、やはり2時間強では描き切れていない部分も多々あったと思うので、連続ドラマで続編を期待したい。

その時にはまたあるあるの神にバイデンの格好で、「逃げ恥、めっちゃおもろい」と歌い上げてもらいたい。


 

人生すごろく

「あの人はもう”あがり”なのよ。すごろくでいう”あがり”やっちゃったから。『王様のブランチ』って渡部さんのためにあるような番組じゃん。軽くて、映画で、そんなに笑い要らない。渡部さんは”あがり”。あれが終わるときが終わり」

 

かつて有吉はアンジャッシュ渡部をこう評した。

そして、その渡部は色々あってすべての番組の出演を自粛している。もちろん『王様のブランチ』も。もしかしたら自粛だけでは済まず、このまま番組から去ってしまうかもしれない。それはもう色々あったから。というか色々な方と色々やったから。

 

また別の色々があってすべての番組から出演を自粛させられてる人気ユーチューバーの宮迫は(今次のコロナ禍により「自粛」は他人から強要されるものに再定義されました)、かつてテレビに出ていた時に「司会が面白くない」とネットで言われていたことに対しこう反論した。

「待てと。司会に辿り着くまでやったこと遡ってくれと。ひな壇もコントも全部やった。全部そこで勝ち上がってここ(司会席)に座ってることをなんで分かってくれへんの?」

この言説から察するに、宮迫は司会を”あがり”と思っていたのだろう。ひな壇、コント、その他諸々の面白いことをするのは、すごろくの盤面を進むためであり、そのすごろくの”あがり”に司会席があると。司会は今までの努力に対する功労賞あるいはご褒美でありそこで面白いことをする必要がないともとれる。

また、自身の起こした色々について謝罪する場面でも「番組のスタッフ、相方の横に戻りたい」と語っており、彼にとってこの現状は”一回休み”のマスに戻されたくらいの認識に思える。

 

翻って渡部である。

果たして有吉の言うとおり『王様のブランチ』の馘首とともに渡部自身も終わってしまうのだろうか。『王様のブランチ』が彼の”あがり”なのだろうか。

彼自身、今の「グルメキャラ」は生き残りの策だったと語っている。

エンタの神様』でブレイクするも、その他のバラエティ番組では結果を残せず、恋愛心理学、夜景鑑賞士、お魚検定と様々な資格に手を出しキャラを模索する日々。そして、さるプロデューサーの助言で始めた『わたべ歩き』というグルメブログでついに金脈を当てる。寺門ジモン、食べログ、うどんが主食らと癒着を繰り返し今の地位を築くに至った。

何せまたしても有吉曰く「昔はカッスカスの刺身を食べて喜んでいた」人物だ。生存戦略の末にグルメキャラを確立し、たまたま『王様のブランチ』の玉座に就いたに過ぎないわけで、そこから一時的に(もしくは恒久的に)降りている現状は”一回休み”なのだろうか。それとも”振り出しに戻る”だろうか。はたまたまったく別のすごろくに飛ばされたのだろうか。

とにもかくにも、『相葉マナブ』で相撲をした時に、小島よしおとハライチ澤部がきちんと裸にふんどし姿だった一方で、アイドルの相葉と同じくTシャツ姿だった渡部が、今度は裸になってくれることを期待している。

女子と女子を深読みしたくてたまらない

場所はカフェ。白い丸テーブルに白い椅子が二つ。

ストライプのブラウスに黒のスカート、ピンクのカーディガンを肩に巻いた女性らしき人物が座っている。テーブルの上の飲み物を手にする。キャラメルマキアートであろうか、ストローで一口飲み、ため息交じりにつぶやく。

「あーあ、女子力高くなりたーい。あぁ、高くなりたいな、女子力。あぁ、なりたい、高く、女子力」

典型的な女子だ。「女子力高くなりたい」は女子の願望であろうが、ここまで直截的な物言いをするものだろうか。倒置法まで使って。典型的な女子というより記号的な女子と言えるかもしれない。さらに彼女は続ける。

「とか言ってこんなすっぴんで出歩いてる時点でダメだよねー。えぇ?すっぴんだよ。うん、すっぴんすっぴん。全然そんなことないよー。モテないよー。モテないモテない。女子力低いもーん」

どうやらもう一つの椅子に座る友人と女子トークをしているらしい。なるほど女子会か。そして、すっぴんを自虐しつつ、そうは見えないという自慢を織り込んでいる。どこかで見た女子あるあるだ。

「ほら、私、中身が男じゃん?中身が男じゃん?男なのね?男なのよ。だから全然モテないの~?今?うーん、今は…、恋はお休み中かな?うーん、ほら私、恋と仕事だったら、仕事を選んじゃう人じゃん?人じゃん?人なのね?人なのよ。そうそうそう。だからやっぱり付き合うなら~、お互い~、干渉しすぎない関係性が~、理想だよね?この曲よくな~い?あぁ~フェス行きた~い。フェス行きた~い。あぁ~女子力高くなりた~い。あぁ~フェス行きた~い。は~い。わぁー!美味しそうなパンケーキィー!美味しそうなパンケーキィー!」

中身が男アピールに、キャリアウーマンアピール、さらには大人の恋愛を分かってますアピールを繰り出したかと思えば、店内のBGMに反応し「フェス行きたい」と急転直下で話題を変える(さりげなくオシャレ趣味アピールも滲ませる)。かと思えば、注文したパンケーキが届くや否や美味しそうと歓喜し自撮りする。女子あるあるをてんこ盛りにしたような女子だが、何よりおかしいのが、それらを可愛らしく言うのではなく、まるで悪魔に乗り移られたかのように目を見開き鼻孔を膨らませ口はへの字に歪みアゴは極度にしゃくれている。友人にアピールする時はそれまでギリギリ女子のていを保っていた声すらもドスの効いた低い声となり完全に悪魔のようだ。

これは去る3月に『ENGEIグランドスラム 今こそ笑いで乗り切ろうSP』内で放送されたバカリズムの「女子と女子」というネタだ。2015年に披露したネタの再放送であるが、「人を傷つけない笑い」が持て囃され、少しでも差別的な表現があろうものなら魔女狩りのごとく吊るし上げられ立ち上がれなくなるまで徹底的に叩かれる令和の世にあって、こんな悪意の塊のようなネタが誰にも注意されることなく今日の日まで無事でいるのは奇跡としか言いようがない。

根底どころか表面から悪意でコーティングされ、どこをどう切り取っても悪意しか出てこないこのネタが炎上せずにいられるのはなぜだろうか。

一つには演技があまりにも過剰だということだろう。ここまで突き抜けるともはやギャグでしかなく、バラエティを昼夜監視する良識派の御仁もさすがにこんな分かりやすいボケを注意したら馬鹿だと思われるかもしれないという躊躇を生んだのではないだろうか。

また、これが実は「ありきたりなネタ」ということもある。「女子あるある」あるいは「女子が嫌いな女子」を形態模写するネタは、凡百の女芸人たちが扱ってきた定番である。今まで女芸人が演じてきて看過されてきたネタを男芸人であるバカリズムが演じたからといって途端に炎上したのであっては道理が通らない。ただちょっと女芸人より悪意を過剰に詰め込んで、エンジンが壊れるほどアクセルを踏み込んでいるだけだが。

こう書いてみて一つ可能性として考えられるのが、バカリズムが馬鹿にしている対象が実は「この女子」ではない、ということだ。実は「この女子」を馬鹿にしているのではなく、「この女子を演じている女芸人」を馬鹿にしているのではないだろうか。常に新しい切り口でネタを考えるバカリズムのことだから、いつまでもこんな古臭い偏見をネタにしている女芸人を馬鹿にして、あそこまで過剰な演技をしているのかもしれない。「お前のやっているネタはこんなにくだらないものなんだよ」と。そうなるとそれを見て笑っている視聴者すらも馬鹿にしているとも考えられる。

一見フルスイングで振り切っただけの馬鹿なネタかと思いきや、深読みし始めるとその深淵にどんどんと吸い込まれていく。

バカリズムが席を移動し、もう片方の友人女子を演じ出したところからさらに世界は歪む。

「ホントにそうだよねー。うん、私もそう思うー。私も、私もそろそろ婚活しなきゃねー。そうなのよー婚活ぅ…うわぁーーー!!トイプードル可愛いぃー!!トイプードル可愛いぃぃーーーーー!!!」

今まで演じていた女子よりもさらに顔を歪め、さらに声も汚く演じ、悪夢のような女子会が完成した。…かと思えば、その友人女子が「可愛いぃー」と叫んだトイプードルを連れていた女子も汚い顔と声でその愛犬をクリームブリュレちゃんと呼ぶ。そして、店内が突然暗くなりカフェの店員がモンスターのような挙動で呪いの歌もといハッピーバースデーを歌いながら花火のついたバースデーケーキを持ってくる。号泣する友人女子、プレゼントが入浴剤であることを強調する女子、間抜けな顔で「おめでとうございまーす」と拍手する店員。混迷を極める店にカップルがやって来る。「窓側の席空いてませんか~?」と脳が空洞かのような口調で店員に尋ねる男子と、「この曲よくなーい?」と彼氏を無視して踊る女子。

ついにバカリズムの攻撃対象が女子だけにとどまらず、その銃口がすべての人間に向けられていることが明らかになる。「女子と女子」というタイトルに騙されてはいけない。これは人間の愚かさを笑うコントなのだ。周りの評価を気にして、恋だの愛だのインスタ映えだの、くだらない尺度で振り回される我々人間の愚かさを描いた一大叙情詩だ。

そう思ったところに衝撃的なオチが訪れる。カフェにいるすべての人間が今にも涎を垂らさんばかりのアホ面で各々喚く姿を演じていたバカリズムが地面に四肢を置き、あのトイプードル、クリームブリュレちゃんとなり「ワンワンワン!」と叫び、「ジャージャージャー」「ブリブリブリ」と糞尿を垂らす。そしてバカリズムが犬のまま鳴き散らしながら舞台の照明が消えていく…。

なんてことだ。一枚皮を剥げば人間も犬も、いやこの地球上に生きとし生けるすべての生命体が等しい存在なのだという、壮大なメッセージが込められていたことにこの時気づいて膝から崩れ落ちた。

こんな崇高なテーマのコントが炎上するはずがない。コントの表面だけ見て「悪意の塊」なんて言っていた自分が恥ずかしい。バラエティを昼夜監視する良識派の御仁が火をつけなかったのも、私みたいに表面だけを見ずに、きっとその奥にあるこの生命を巡る奇跡の物語に気づいていたからなんだろう。

 

今日届いたホームベーカリーでパンを焼いている間にそんな深読みをしていた。

非凡に生きること

『オードリーのオールナイトニッポン5周年記念 史上最大のショーパブ祭り』を今の妻と見に行ったのはもう6年も前のことか。

当時はまだ結婚する前で、というかまだ付き合って間もない妻に「オードリー好き?」と聞いたら「好きです(テレビで見る程度に)」と答えたので、リトルトゥースでもなければ重度のお笑い好きでもない妻をラジオイベントに連れて行くという頭のおかしなことをしたのだった。妻との思い出を振り返ると「よく結婚してくれたな」と思うことばかりだ。「元気がない」と言う妻に当時『うつけもん』に出ていたサンシャイン池崎の動画を送りつけたり、初めて家に遊びに来た時に東京03飯塚の「ストイック暗記王」を見せたり。

件のイベントも、『CHA-LA HEAD-CHA-LA』を客席まで下りて歌う春日に喜んでいたものの、TAIGAに心の底から「お前誰だよ」と言わせてしまったし、バーモント秀樹の何が面白いかを説明できなかったし、下ネタが苦手というのにフルスイングの「しんやめ」が始まった時は隣を見ることすらできなかった。

それでも結婚してくれた奇特な妻とこの前『中居正広金スマ』の2時間SP、オードリー特集を見ていた。

竹刀を永遠に振り続ける少年若林、ポロラルフローレンを着ていちご狩りをする若き日の貴花田、一瞬だけ登場して消える谷口氏…と見どころ満載であったが、若林が結婚のきっかけとして語った病に伏した父との最後の1年間で泣いた。隣にいる妻の目も憚らず、それはもうさめざめと泣いた。

妻と出会う前は、一生一人で生きていくんだろうな、と思っていた。

吐くほどモテないという消極的理由もあったが、一方でテレビが好きで、お笑いが好きで、アイドルが好きで、この娯楽を楽しみ尽くすには時間がいくらあっても足りないし、一人でも十分楽しく生きていける、むしろ誰かと一つ屋根の下で暮らすなどありえない、そんなものは旧態依然とした古臭い幸福像だ、とすら思っていた。それは当時流行っていた物事を「ナナメに見る」という風潮も多分に影響していたのかもしれない。

「ナナメに見る」芸人たちの中に若林もいたはずだ。

その若林が、入院した父が母と手を取り合いお互いを褒め称える姿を見て、突然「結婚はいいぞ」と言われ、そして余命いくばくもない時に食べたいものがコンビニのアイスだったことに衝撃を受け、「自分が細々と積み上げてきた(斜めに見る)キャラがおじゃんになった」と言う。

そこから結婚に至るまでガールズバー通いなどを挟みまた数年の歳月を要するわけだけど、一人の価値観を変えるのは、どのタイミングで誰と出会ったか、何を言われたか、という積み重ねなのかもしれない。

私は幸運にも妻と出会い、結婚式で父は「立派に育ったな」と言い、母は孫を溺愛しているのを見ると、「自分の生き方で喜ぶ人もいるのだな」とすこし思った。それを今様に言えば「呪い」になるのかもしれないが、両方の生き方があっていいと思う。もし自分がそのまま一人で生きていれば誰にも臆することなくその生き方に誇りを持っていただろうし。ただ結婚して初めてその価値観を実感した。

そして、妻と過ごしていると「コンビニで手に入るアイス」がどれほど幸せかを感じる。ある日、近所で工事が始まった。どうやら全国チェーンの喫茶店ができるらしい。今までの私であればチェーン店なんて他の選択肢がなくて仕方なく行くところ、つまりとても平凡なところだと思っていた。しかし、妻が目をキラキラとさせながら「オープンしたら一緒に行きましょうね!」と言ってきた時に、途端にこちらもワクワクしだした。思春期をジンジンに腫らしていた頃は、自分は特別な存在だと信じていて、サラリーマンになって家庭を持つなんて平凡な生活が恐怖でしかなかったが、今、妻そして娘といるとどんな平凡なことも非凡に感じる。コンビニのアイスだって、ショッピングモールだって、近所の公園でさえ。

そんなことをしみじみと思い、若林のエピソードに涙したのだが、泣いた理由はもう一つあって、私も同じように父を亡くしていて重なる部分が多かったからだ。これについては書くだけで泣きそうなので詳しくは書かないが、様々なことが頭の中を駆け巡り、気づけば泣いていた。

ふと隣を見ると、妻がすべてを感じ取ってくれたのか、私を見つめながら泣いていた。

のび太結婚前夜』ではないが、人の幸せを願い人の不幸を悲しむことのできるこの人と結婚できて本当に良かったと感じた。

その直後、若林が病床の父と最後に一緒に見て笑ったという春日のVTRが流れた。 

 

「春日橋!開通です!」

 

パンツ一丁で寝そべる春日の上を小型犬が渡っていく。 

体を張るだけで、「渡りましたー!開通しましたー!ご覧のチャンネルはテレビ東京でございまーす!」と何一つワードで笑いをとらない春日。

あんなにも泣き腫らした後なのに、あまりのくだらなさに爆笑が止まらなかった。

隣を見ると妻も同じように泣きながら爆笑していた。

あぁ、この人とともに歩んでいくのだな。

 

今度はわしとおまえとで

この春日橋を逆に渡り

あしたの栄光を目指して

第一歩を踏み出したいと思う